LOGIN|墨余穏《モーユーウェン》は胸元から通行書を取り出し、門番へ渡す。
鍾馗のような顔つきの門番はそれを受け取り、|墨余穏《モーユーウェン》を上から下までなぞるように見遣った。 通行書に書いてあった文字を読むやいなや、門番は懐かしい人を思い出したかのように、突然表情を緩ませる。 「若公子は、あの|豪剛《ハオガン》道長の御子息でしたか〜! お待ちしておりました。中へどうぞ」 |墨余穏《モーユーウェン》は、白い歯を見せてニコッと笑う。 (さすが、父ちゃん。名を見せるだけで、人の形相まで変えられるんだ! ) すると、先に門を通過していた|師玉寧《シーギョクニン》も驚いたように振り返り、「父上は豪剛道長なのか」と尋ねた。 「うん。まぁ、養父なんだけどね。孤児だった俺を拾ってくれたんだ。|賢寧《シェンニン》兄は、父ちゃんのこと知ってるの?」 いつもの癖で|豪剛《ハオガン》のことを『父ちゃん』と言ってしまったが、|師玉寧《シーギョクニン》は全く気にする様子もなく答えた。 「質実剛健の色男で、倒した妖魔は千体以上。|豪剛《ハオガン》道長の手にかかれば、生きて帰れる者はいないと聞いている」 「あははっ! その通り! ちなみに床に倒した女も千体以上だ」 |師玉寧《シーギョクニン》は何か喉に詰まらせたかのように咳払いをし、偶発を避けた。 「はははっ。|賢寧《シェンニン》兄、冗談だよ。父ちゃんが女といる所を俺は一度も見たことがない。春画を読んでたり、たまに変な妖獣を連れて帰ってくることはあるけど……」 そんな会話をしていると、緑色の衣を着た貧弱な男が黒い衣を着た長身の男に胸ぐらを掴まれているところに遭遇した。 情に厚い|墨余穏《モーユーウェン》は、虐められている者を見ると黙っていられなくなり、すぐに貧弱な男の元へ駆け寄った。 「おい、何してる!」 「あ? 誰だてめぇは!」 「俺は|墨余穏《モーユーウェン》。天流会に来た者だ。とりあえず、そいつから手を離せ」 黒い衣の男は、掴んでいた胸ぐらから手を離し、緑色の貧弱な男を解放した。しかし、すぐに黒い衣の男は矛先を|墨余穏《モーユーウェン》に向け、噛みつく。 「お前、|大篆門《だいてんもん》のオッサンと一緒に住んでるって奴か? 血も繋がってねーのに、よくここの門を潜れたな。呑気に家族ごっこでもしてここに来られるなんて、名門の天台山も落ちぶれたもんだよ」 「何だと?」 |墨余穏《モーユーウェン》の顔色が一瞬で曇り、額には青筋が浮き出る。周りの空気が一変し、|墨余穏《モーユーウェン》は黒い衣の男を睨みつけた。 黒い衣の男は、更に挑発するように嘲笑う。 「ははっ、何だ? その|狗《負け犬》のような顔は。薄幸な奴はすぐそういう顔をする。大篆門のオッサンも所詮そんな程度なんだな〜」 黙って聞いてりゃ、この男! |墨余穏《モーユーウェン》は、憤懣やる方ない様子で黒い衣の男に拳を振り翳そうと腕を挙げる。 しかし、それを見ていた|師玉寧《シーギョクニン》は、力強く|墨余穏《モーユーウェン》の腕を掴み、それを阻止した。 「|墨逸《モーイー》。相手にしなくていい」 掴んでいた腕をそっと離し、|師玉寧《シーギョクニン》は黒い衣の男の前に向きを変え、その男の前で仁王立ちする。 それはまるで、脳天から氷瀑を突きつけているかのようだ。 そして闇をも貫く強圧的な低い声で、釘を刺した。 「ここは荘厳たる天台山だ。場を弁えて行動しろ」 齢十八から出るような風格とは思えないほど、力強く毅然とした風貌がそこにあった。神の如く現れれば、どんな争いも止めてしまう時の氏神のように。 黒い衣の男は、|師玉寧《シーギョクニン》には太刀打ちできないと言った様子で舌打ちし、|師玉寧《シーギョクニン》を一瞥したあと、逃げるように奥へと走っていった。 「大丈夫か、|風立《フォンリー》」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言って、地面に座り込んでいた|葉風安《イェフォンアン》の手を引いた。 立ち上がった|葉風安《イェフォンアン》は、衣の裾を叩きながら「|賢寧《シェンニン》兄さん、ありがとう」と、礼を言っている。 二人はどうやら知り合いのようだ。 |墨余穏《モーユーウェン》が二人の様子をぼんやり眺めていると、それに気づいた|葉風安《イェフォンアン》が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって拱手をした。 「初めまして、墨公子。私は緑琉門の|葉風安《イェフォンアン》、字は|風立《フォンリー》。先ほどはお見苦しい所をお助けくださり、ありがとうございました。墨公子も天流会へ?」 「あぁ、そうだ。俺は|墨余穏《モーユーウェン》。字は|墨逸《モーイー》。俺にはそんな堅苦しくなくていいから、俺のことも字で呼んでよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は|葉風安《イェフォンアン》の元まで歩き、|葉風安《イェフォンアン》の小さな肩に手を回した。 「ははっ。では、|墨逸《モーイー》兄さん」 「『さん』もいらない」 「じゃ、|墨逸《モーイー》兄」 「『兄』もいらない」 「いや、そこは|墨逸《モーイー》兄で」 「ははっ、分かったよ」 そんなやり取りをしたあと、二人の友人を迎えた|墨余穏《モーユーウェン》は、これから始まる天流会に胸を躍らせながら、天台山の本殿へと向かった。 しかし、歩みを進めていると、先が見えないほどの長階段が突如目の前に現れ、|墨余穏《モーユーウェン》の顔は一瞬で雨雲の如く曇った。 |墨余穏《モーユーウェン》と|葉風安《イェフォンアン》は首を垂れながら、修士の口から出るとは思えない恥晒しな文句をつらつらと並べ、本殿に続く長階段を一つ一つ登り始めた。 |師玉寧《シーギョクニン》はというと、泰然自若な様子で先に進んでは、二人が後ろからやってくるのをひたすら待ち続けている。 「なぁ、|賢寧《シェンニン》兄。何でそんな余裕なんだよ〜」 「ほんとに。何か仙術でも使ってるんじゃないの?」 「使っていない。いいから早く来い」 |師玉寧《シーギョクニン》に尻を叩かれた二人は、歯を食いしばり何とか最後の一段を上りきった。 そしてようやく天台山の本殿に足を踏み入れると、とんでもない広大な景色が目の前に飛び込んできた! よくぞこんな所まで登ってきたと思うほど、天台山は峻険の中に聳えているのが分かる。 空気も澄んで、まるで別世界に居るようだ。 更に奥へと進むと、机がいくつか並んでおり、一番前の席で一際目立つ金色の線が映える紫の衣を着た男が、護衛と一緒に座っていた。 見るからに気高い金持ちの坊ちゃんという感じだ。 |師玉寧《シーギョクニン》の姿を捉えた坊ちゃんは立ち上がり、|師玉寧《シーギョクニン》へ折り目高に拱手する。 「お久しぶりです! |水仙玉君《すいせんぎょくくん》!」 「うん、久しいな。|金冠明《ジングァンミン》」 「水仙玉君は、お変わりなかったですか?」 「うん。何も変わっていない」 そんな先輩後輩の会話をへし折るように、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背後からヒョイっと顔を出し、|金冠明《ジングァンミン》に自己紹介を始めた。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》の時と同じ折り目高な返事が返ってくると思いきや、逆鱗に触れたかのように|金冠明《ジングァンミン》の態度が急変する。 更に、害虫を見るような目で|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥し、紙を投げ捨てるかのように突き放した。 「私を字で呼ぶなど身の程知らずが。私は馴れ馴れしい公子が嫌いだ。水仙玉君すら私を字で呼ばぬぞ。さっきから、金魚の糞のように水仙玉君の後ろにベタベタとひっついてお前は何様だ。どこのどいつか知らないが、私はお前のような品のない奴とは友人になるつもりはない」 初見で会う者によくそんな事が言えるなぁ〜、と|墨余穏《モーユーウェン》は関心を見せながら鼻で笑ってしまった。 品のない奴は一体どちらだろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は笑みを湛えて言い返す。 「はははっ。それはそれは、気分を害してすまなかったよ。でも、人で態度を変えるのはいかがなものかと思うよ。あなたが言う品のある人は、そういうことをしないだろうから。あ、俺は一番後ろに座るし、|賢寧《シェンニン》兄からは離れるよ。じゃあ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、ひとり一番後ろの席に腰を下ろした。 本殿の空気が悪くなったのは、言うまでもない。 |師玉寧《シーギョクニン》は深い溜め息を吐き、それぞれバラバラの席に着くことになった。 しばらくすると、聞いたこともない門派の者や、散士を目指す者たちが続々と本殿へ集まってくる。 |墨余穏《モーユーウェン》は隣に座った|張秋《ジャンチウ》という男と意気投合し、さっきまでの気まずさを自ら晴らした。 そして、その場が静まり返るほど誰もが恐れ敬う天台山の長座・|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が現れ、厳粛な雰囲気で天流会の幕が上がった。それから間も無くして天台山は大きな観音廟として新しく建立され、全て寒仙雪門が管轄することとなった。 三神寳と|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は同じ廟で祀られ、かつての|香翠天尊《シィアンツイてんずん》と|深月天尊《シェンユエてんずん》も成仏するという意味で違う廟に位牌が納められた。かつての緑琉門にいた|葉風安《イェフォンアン》たちの位牌も天台山に集約され、いつでも故人を偲べるように配慮した。 それぞれの門派はというと、大篆門の門主・|高書翰《ガオシューハン》は道玄天尊の後を追うようにこの世を去り、後継者がいないという理由で大篆門は閉門となった。 金龍台門は|金冠明《ジングァンミン》が正式に門主となり、新しく家督を担ぐこととなった。あの邪教の鳥鴉盟はというと、盟主の死によって強制的に閉門。罪を犯した者は流刑され、その後も|師玉寧《シーギョクニン》が厳しく罰した。 寒仙雪門では、|墨余穏《モーユーウェン》が正式に寒仙雪門に入内し、師玉寧の伴侶となった。 |墨余穏《モーユーウェン》は相変わらず、玉庵のカウチでゴロゴロしながら、|師玉寧《シーギョクニン》の美しい横顔を眺めている。入内してからというもの、常に一緒にいる為あんなに嫌いだった一葉茶も難なく飲めるようになった。 一葉茶を喉に通すと、|墨余穏《モーユーウェン》はふと尋ねる。「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていたシユって人は誰なの?」「ハンリ殿から聞いた話なんだが、道玄天尊が若き頃に人攫いに遭った若き先代と幼女のハンリ殿を助けたそうだ。それからしばらく天台山で面倒を見ていたそうで、道玄天尊と先代は互いに恋慕を抱いたそうだが、叶わぬ悲恋で終わったらしい。その時抱いた悲しみとこの想いは永遠に忘れないという意味で、道玄天尊の|神漣剣《しんれんけん》と先代の|神翼鏡《しんよくきょう》、それぞれの秘宝に特殊な守護術を封じて三神寳として祀ったらしい」「へぇ〜。なんか深い愛だなぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》はしみじみと目を細めながら、一葉茶を啜った。 庭から入ってきた黄色い蝶が|師玉寧《シーギョクニン》の人差し指に止まる。「想いが強ければ強いほど、失う痛みは大きい。私は道玄天尊のお気持ちが凄くよく分かる」「だから、俺が死んだ後閉関してたんだ……」 黄色い
|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は言うまでもなく、無惨な姿となって力尽きた。 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の凄まじい威力を見せつけられた|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、その場で喫驚していた。 「いやはや、たまげたね〜。何という威力と人情劇なんだ。素晴らしいよ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》さんよ。守ってきた盟主と実の妹を手に掛けるなんて、|李世《リーヨ》君といい、二人はお心が強いの〜」 ひどく感嘆した様子で拍手をするように、|呂熙《リューシー》は胸の前で鉤爪を鳴らした。 しかし、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》はこれまでの力を使い果たしてしまったのか、突然吐血しその場に項垂れてしまった。一緒に来ていた天台山の道士たちが駆けつけるも、いつ力尽きてもおかしくない様子だ。「滑稽だなぁ。天尊と呼ばれた高貴なお方も所詮はただの人間。人間の裁量などその程度なものなのだよ」 口元を一文字に引き結んで、|呂熙《リューシー》は気怠く言う。凝り固まった首をゴリっと鳴らすと、|墨余穏《モーユーウェン》に向かって濁った目を据わらせた。「さぁ、とっとと終わらせようじゃないか」「そうだな。俺も早く終わらせて、|師玉寧《シーギョクニン》と三礼の儀をしたいからさ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は何の躊躇もなく真顔で言うと、その言葉を聞いていた|李世《リーヨ》は顔を顰め、「こんな奴と三礼なんて世も末だ!」と吐き捨てた。 すると、凍てつく光芒を放った剣が|李世《リーヨ》の頬を掠め、|李世《リーヨ》の背後にあった大木に勢いよく突き刺さった。「減らず口も大概にしないか」 重厚感のある低い声で、|師玉寧《シーギョクニン》は|李世《リーヨ》を凍らすように一瞬で黙らせる。 |師玉寧《シーギョクニン》の気迫に恐れ慄いたのか、|李世《リーヨ》はガタガタと歯を震わせ始め、それ以降口を閉ざした。|師玉寧《シーギョクニン》は念の為、|李世《リーヨ》の身体に字符を貼り付け、身動きを封じた。「あはははっ! 美人を怒らすと怖いってことを肝に銘じておけ、世間知らずの坊ちゃんよ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》はケラケラとそう言い終えると、|豪剛《ハオガン》から譲り受けた剣を鞘からスルッと抜き出し、刃先を|呂熙《リューシー》に向けた。 何があっても|呂熙
懇ろな関係になった|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、二人で飲んだ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の同化呑術の効果も相まって、無敵だと言わんばかりに勢いをつけていた。 鳥鴉盟たちから決闘状が寒仙雪門に届いたのは、あれから数日経ったある日の事だった。 「いよいよだな、|墨逸《モーイー》」 「そうだね、まぁ大丈夫っしょ。俺ら最強だし。ただ、|賢寧《シェンニン》兄の好きだったお姉さんを始末しなきゃなんないからな〜。どうなるんだか」 |墨余穏《モーユーウェン》が横目に冗談めかして言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は一葉茶を啜りながら目を細めた。 「私が好きだった? 何かの間違いではないか? 私はいつも、力を封じ込められてしまっていただけだ」 「え? 見つめていたじゃん。こう、好きで好きで堪らないって感じで〜」 相手を弄るように、|墨余穏《モーユーウェン》はジーっと|師玉寧《シーギョクニン》を見つめる。 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を横に振った。「動きを止められていただけだ。その時から気づいていた。この人は、人間の動きを瞬時に止める力があるのだと。だから、そこをいかに打破するかが重要だ」 「あはははっ! 余裕だって。あの人たちには弱点があるんだ。それを全面に出せば、皆途端に弱くなる」 眉間に皺を寄せた|師玉寧《シーギョクニン》は、何を企んでいるんだ? とでも言いたげに|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 「まぁ、後で見ててよ。とりあえず、突厥は崑崙山の爺ちゃん先生たちに任せて、|賢寧《シェンニン》兄はカラス達を頼むよ。そうだ、大篆門の門主は来るの?」 「いや、|高書翰《ガオシューハン》門主は来ないだろう。大病を患ったと知らせを受けた。来れたとしても|黄轅《コウエン》師範が黙っていないはずだ」 「確かに。友人を追い出した門派に情はないだろうね」 |墨余穏《モーユーウェン》は他人事のように言い終えると、書き留めておいた呪符を胸元に仕舞った。 |黄轅《コウエン》に磨いてもらった|豪剛《ハオガン》の剣も持って、|師玉寧《シーギョクニン》の支度を扉の前で待つ。 恐らくこの戦いで、長年続いた天台山の歴史は幕を下ろすだろう。今まで保たれていた統治は完全に崩壊し
目を覚ました|墨余穏《モーユーウェン》は、|黄轅《コウエン》が言っていた翡翠泉へ向かっていた。 ようやく連日連夜の修行から解放された|墨余穏《モーユーウェン》は、込み上げる疲れを感じると同時に、己の心身が一回りも二回りも大きくなっていることに気づく。 体が重くなっていることは薄々気づいてはいたが、こんなにも厚みがあっただろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は自分で、自分の逞しくなった二の腕や太腿を触ってみる。 |黄轅《コウエン》先生の鬼の修行は筋肥大にもなるのだなぁ、と内なる力を全面に引き出してくれた|黄轅《コウエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず感嘆の息を漏らした。 そんな修行の成果を噛み締めながら歩いていると、生い茂る草むらから澄み切った翡翠の色をした泉が見えてきた。 少し奥へと進むと水面を激しく打ちつける滝の音が聞こえてくる。滝の側まで行くと、その辺りは白い湯気が漂っており、墨余穏は指先を泉に入れて温度を確かめた。「お、あったかいじゃないか! 珍しいな、温泉の滝なんて」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を言いながら、衣を脱ぎ始めた。露わになった傷だらけの身体をゆっくり泉の中に沈め、痛みを堪える。 滝の側までゆっくり移動し、|墨余穏《モーユーウェン》はしばらく傷に染みていく痛みと戦いながら泉に浸かった。 すると、ちゃぽんと水面を鳴らしながら何者かがこちらに向かって歩いてくるのが分かった。|墨余穏《モーユーウェン》は女性かもしれないと思い、そっと滝の裏側にある空洞に身を隠した。 歩き方がゆっくりでどこかぎこちない。 女性というよりも老人か誰かだろうと様子を見ていると、白い肌をした長身の美しい男が現れた。 |墨余穏《モーユーウェン》の胸が打ち破るように高鳴った。 どうしてここに……。 どうしてここに、|師玉寧《シーギョクニン》が居るんだ?! |墨余穏《モーユーウェン》は、「何してるんだ? |賢寧《シェンニン》兄!」 と思わず叫ぶ。 目の前に突如現れた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、師玉寧も目を丸くしていた。「傷が治ると聞いた」 「誰に?」「雲師の|黄轅《コウエン》師範に」 記憶が戻っているのだと確信した|墨余穏《モーユーウェン》は、「俺のことは分かるか?」と尋ねた。 すると、|師玉寧《シーギョクニ
翌朝、|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に|金王《ジンワン》から受け取った十包の薬を渡し、修行先である|崑崙山《こんろんざん》へ再び戻ることを伝えた。 「そんな。寒仙雪門には部屋もいくつかありますし、今すぐお戻りにならなくても……」 「いや、時間が無いんだ。|賢寧《シェンニン》兄が回復したら、すぐに鳥鴉盟のところへ行かなきゃならない。今のうちに修行しておきたいんだ」 |墨余穏《モーユーウェン》は先輩らしく、安心させるような逞しい笑みを見せて、|一恩《イーエン》の両肩を軽く叩いた。 そこまでしてどうしてですか、と肩を落とす|一恩《イーエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は頬を掻きながら照れ臭く言う。「好きな人の前ではカッコつけたいだろ」 賢い|一恩《イーエン》は顔と耳を瞬時に赤らめ、「そうですね」と言った。 続けて、何かを思い出したかのように、突然「あ!」と切り出す。「何だよ、急に」「|師《シー》宗主のお部屋を綺麗にしていた時、萎れた一輪の水仙が落ちていました。あれは、恐らく|墨逸《モーイー》先輩が持って来られたものですよね? 拾って小さな瓶に入れておいたら見事に咲き戻りまして……」「……」「……それを|師《シー》宗主の枕元に置いておいたら、昨日それをずっと穏やかな目で眺めてらっしゃいました。ご記憶が戻るのも時間の問題かもしれません」 |墨余穏《モーユーウェン》は少し間を置いて、「……だといいな」と言って小さく微笑んだ。記憶の片隅に残っている物を見ると、過去の記憶が蘇る話はよく聞く。|墨余穏《モーユーウェン》にも、一筋の希望の光が見えた気がした。「じゃ、|一恩《イーエン》。あとは頼んだぞ。何かあれば、また知らせてくれ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、手を振りながら寒仙雪門を後にし、乗蹻術を放出して|黄轅《コウエン》のいる崑崙山へ向かった。 ◆ ほんの数日で戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、|黄轅《コウエン》は驚いた!「|墨逸《モーイー》! もういいのか?」「あ、|黄轅《コウエン》先生! いやぁ〜、それが……」 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、|師玉寧《シーギョクニン》が思った以上に深刻であることを報告した。 そして一番恐れていた黒幕の正体も。「やはり、私の読み通りか。
床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持