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第九話 天流会  (初会編)

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-09-29 12:03:18

 |墨余穏《モーユーウェン》は胸元から通行書を取り出し、門番へ渡す。

 鍾馗のような顔つきの門番はそれを受け取り、|墨余穏《モーユーウェン》を上から下までなぞるように見遣った。

 通行書に書いてあった文字を読むやいなや、門番は懐かしい人を思い出したかのように、突然表情を緩ませる。

「若公子は、あの|豪剛《ハオガン》道長の御子息でしたか〜! お待ちしておりました。中へどうぞ」

 |墨余穏《モーユーウェン》は、白い歯を見せてニコッと笑う。

 (さすが、父ちゃん。名を見せるだけで、人の形相まで変えられるんだ! )

 すると、先に門を通過していた|師玉寧《シーギョクニン》も驚いたように振り返り、「父上は豪剛道長なのか」と尋ねた。

「うん。まぁ、養父なんだけどね。孤児だった俺を拾ってくれたんだ。|賢寧《シェンニン》兄は、父ちゃんのこと知ってるの?」

 いつもの癖で|豪剛《ハオガン》のことを『父ちゃん』と言ってしまったが、|師玉寧《シーギョクニン》は全く気にする様子もなく答えた。

「質実剛健の色男で、倒した妖魔は千体以上。|豪剛《ハオガン》道長の手にかかれば、生きて帰れる者はいないと聞いている」

「あははっ! その通り! ちなみに床に倒した女も千体以上だ」

 |師玉寧《シーギョクニン》は何か喉に詰まらせたかのように咳払いをし、偶発を避けた。

「はははっ。|賢寧《シェンニン》兄、冗談だよ。父ちゃんが女といる所を俺は一度も見たことがない。春画を読んでたり、たまに変な妖獣を連れて帰ってくることはあるけど……」

 そんな会話をしていると、緑色の衣を着た貧弱な男が黒い衣を着た長身の男に胸ぐらを掴まれているところに遭遇した。

 情に厚い|墨余穏《モーユーウェン》は、虐められている者を見ると黙っていられなくなり、すぐに貧弱な男の元へ駆け寄った。

「おい、何してる!」

「あ? 誰だてめぇは!」

「俺は|墨余穏《モーユーウェン》。天流会に来た者だ。とりあえず、そいつから手を離せ」

 黒い衣の男は、掴んでいた胸ぐらから手を離し、緑色の貧弱な男を解放した。しかし、すぐに黒い衣の男は矛先を|墨余穏《モーユーウェン》に向け、噛みつく。

「お前、|大篆門《だいてんもん》のオッサンと一緒に住んでるって奴か? 血も繋がってねーのに、よくここの門を潜れたな。呑気に家族ごっこでもしてここに来られるなんて、名門の天台山も落ちぶれたもんだよ」

「何だと?」

 |墨余穏《モーユーウェン》の顔色が一瞬で曇り、額には青筋が浮き出る。周りの空気が一変し、|墨余穏《モーユーウェン》は黒い衣の男を睨みつけた。

 黒い衣の男は、更に挑発するように嘲笑う。

「ははっ、何だ? その|狗《負け犬》のような顔は。薄幸な奴はすぐそういう顔をする。大篆門のオッサンも所詮そんな程度なんだな〜」

 黙って聞いてりゃ、この男!

 |墨余穏《モーユーウェン》は、憤懣やる方ない様子で黒い衣の男に拳を振り翳そうと腕を挙げる。

 しかし、それを見ていた|師玉寧《シーギョクニン》は、力強く|墨余穏《モーユーウェン》の腕を掴み、それを阻止した。

「|墨逸《モーイー》。相手にしなくていい」

 掴んでいた腕をそっと離し、|師玉寧《シーギョクニン》は黒い衣の男の前に向きを変え、その男の前で仁王立ちする。

 それはまるで、脳天から氷瀑を突きつけているかのようだ。

 そして闇をも貫く強圧的な低い声で、釘を刺した。

「ここは荘厳たる天台山だ。場を弁えて行動しろ」

 齢十八から出るような風格とは思えないほど、力強く毅然とした風貌がそこにあった。神の如く現れれば、どんな争いも止めてしまう時の氏神のように。

 黒い衣の男は、|師玉寧《シーギョクニン》には太刀打ちできないと言った様子で舌打ちし、|師玉寧《シーギョクニン》を一瞥したあと、逃げるように奥へと走っていった。

「大丈夫か、|風立《フォンリー》」

 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言って、地面に座り込んでいた|葉風安《イェフォンアン》の手を引いた。

 立ち上がった|葉風安《イェフォンアン》は、衣の裾を叩きながら「|賢寧《シェンニン》兄さん、ありがとう」と、礼を言っている。

 二人はどうやら知り合いのようだ。

 |墨余穏《モーユーウェン》が二人の様子をぼんやり眺めていると、それに気づいた|葉風安《イェフォンアン》が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって拱手をした。

「初めまして、墨公子。私は緑琉門の|葉風安《イェフォンアン》、字は|風立《フォンリー》。先ほどはお見苦しい所をお助けくださり、ありがとうございました。墨公子も天流会へ?」

「あぁ、そうだ。俺は|墨余穏《モーユーウェン》。字は|墨逸《モーイー》。俺にはそんな堅苦しくなくていいから、俺のことも字で呼んでよ」

 |墨余穏《モーユーウェン》は|葉風安《イェフォンアン》の元まで歩き、|葉風安《イェフォンアン》の小さな肩に手を回した。

「ははっ。では、|墨逸《モーイー》兄さん」

「『さん』もいらない」

「じゃ、|墨逸《モーイー》兄」

「『兄』もいらない」

「いや、そこは|墨逸《モーイー》兄で」

「ははっ、分かったよ」

 そんなやり取りをしたあと、二人の友人を迎えた|墨余穏《モーユーウェン》は、これから始まる天流会に胸を躍らせながら、天台山の本殿へと向かった。

 しかし、歩みを進めていると、先が見えないほどの長階段が突如目の前に現れ、|墨余穏《モーユーウェン》の顔は一瞬で雨雲の如く曇った。

 |墨余穏《モーユーウェン》と|葉風安《イェフォンアン》は首を垂れながら、修士の口から出るとは思えない恥晒しな文句をつらつらと並べ、本殿に続く長階段を一つ一つ登り始めた。

 |師玉寧《シーギョクニン》はというと、泰然自若な様子で先に進んでは、二人が後ろからやってくるのをひたすら待ち続けている。

「なぁ、|賢寧《シェンニン》兄。何でそんな余裕なんだよ〜」

「ほんとに。何か仙術でも使ってるんじゃないの?」

「使っていない。いいから早く来い」

 |師玉寧《シーギョクニン》に尻を叩かれた二人は、歯を食いしばり何とか最後の一段を上りきった。

 そしてようやく天台山の本殿に足を踏み入れると、とんでもない広大な景色が目の前に飛び込んできた!

 よくぞこんな所まで登ってきたと思うほど、天台山は峻険の中に聳えているのが分かる。

 空気も澄んで、まるで別世界に居るようだ。

 更に奥へと進むと、机がいくつか並んでおり、一番前の席で一際目立つ金色の線が映える紫の衣を着た男が、護衛と一緒に座っていた。

 見るからに気高い金持ちの坊ちゃんという感じだ。

 |師玉寧《シーギョクニン》の姿を捉えた坊ちゃんは立ち上がり、|師玉寧《シーギョクニン》へ折り目高に拱手する。

「お久しぶりです! |水仙玉君《すいせんぎょくくん》!」

「うん、久しいな。|金冠明《ジングァンミン》」

「水仙玉君は、お変わりなかったですか?」

「うん。何も変わっていない」

 そんな先輩後輩の会話をへし折るように、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背後からヒョイっと顔を出し、|金冠明《ジングァンミン》に自己紹介を始めた。

 すると、|師玉寧《シーギョクニン》の時と同じ折り目高な返事が返ってくると思いきや、逆鱗に触れたかのように|金冠明《ジングァンミン》の態度が急変する。

 更に、害虫を見るような目で|墨余穏《モーユーウェン》を一瞥し、紙を投げ捨てるかのように突き放した。

「私を字で呼ぶなど身の程知らずが。私は馴れ馴れしい公子が嫌いだ。水仙玉君すら私を字で呼ばぬぞ。さっきから、金魚の糞のように水仙玉君の後ろにベタベタとひっついてお前は何様だ。どこのどいつか知らないが、私はお前のような品のない奴とは友人になるつもりはない」

 初見で会う者によくそんな事が言えるなぁ〜、と|墨余穏《モーユーウェン》は関心を見せながら鼻で笑ってしまった。

 品のない奴は一体どちらだろうか。

 |墨余穏《モーユーウェン》は笑みを湛えて言い返す。

「はははっ。それはそれは、気分を害してすまなかったよ。でも、人で態度を変えるのはいかがなものかと思うよ。あなたが言う品のある人は、そういうことをしないだろうから。あ、俺は一番後ろに座るし、|賢寧《シェンニン》兄からは離れるよ。じゃあ」

 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、ひとり一番後ろの席に腰を下ろした。

 本殿の空気が悪くなったのは、言うまでもない。

 |師玉寧《シーギョクニン》は深い溜め息を吐き、それぞれバラバラの席に着くことになった。

 しばらくすると、聞いたこともない門派の者や、散士を目指す者たちが続々と本殿へ集まってくる。

 |墨余穏《モーユーウェン》は隣に座った|張秋《ジャンチウ》という男と意気投合し、さっきまでの気まずさを自ら晴らした。

 そして、その場が静まり返るほど誰もが恐れ敬う天台山の長座・|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が現れ、厳粛な雰囲気で天流会の幕が上がった。

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